休止したその後と新しいステージへ
みなさんこんにちは。
長い間サイトの構成がめちゃくちゃですみません。
Google上での検索順位をずどーんと下げていただき、そのおかげさまを利用して時間のあるときだけ自由に改造しています。
すっかり自己満足のブログとなりました。
一文目から誤字があったって、営利企業でも公共施設でもないのでへっちゃらです。
パルケさん「らしさ」として笑ってください。
結論から言うと、これを書いて公表しているということは、ダイジョブだった。
ということになります。
何が?
この何者でもない人物に興味のある方だけお進みください。
ただ、内容が内容だけに言葉に気を付けなければならない部分が多く、
いつもは何回も時間をおいて書き直すのですが、今回は書きなぐりのため気に障る箇所がいくつかある、絶対ある、という前提で進めていただければ助かります。
さて、前々回、「収入がピンチ」なのと「自身の理由」で活動を休止と宣言。
そのあとに、思わず「いんざいパルケとして活動終了」宣言をしました。
これについて一人会見したいと思います。
質問「今回休止した理由は本当はなんだったんですか?なんかやらかしたんですか?」
書いた通り、「仕事」と「身の上の理由」です。
休止から終了に至った理由は本当にさまざまな件が重なった結果なのですが、正直にすべて話すとたった1つの事案につながります。
一言キーポイントでいうと「身辺の事情」からはじまります。
ええ、「一身上の都合」や「家庭の事情」、我が日本ではそれ以上踏み込めない空気をやんわり出しながらも誰の責任にもならない素晴らしい言葉です。
これじゃあ納得しないと思いますので、自分だけのプライバシーに限って隠さずにお伝えしたいと思います。
質問「いつから休止、しかも終了を考えていたんですか?」
時はさかのぼること1年以上も前から。
私はいんざいパルケというブログやSNSの活動にややマンパワー不足を感じていました。
前々回お伝えした「エネルギー切れ」という部分です。
同じころ、私の大切なブログ仲間である印西とぴっくさんにもこの件を話したのです。
そして最終決断したのが2024年10月くらい。
私は印西とぴっくさんに、「そろそろ休もうかと思います。」とお伝えしました。
というのも、その時期私自身いんざいパルケの更新をやってられる時間がほとんどなく、仕事にすら従事できない事案が重なっていました。
私はこういうとき、いつも思うんです。
「仕事はやり直せるけど、家族や友人、今しかできないことはやり直せない。その人たちとの時間は今しかない。」
というわけで、コロナの時期並みに長い時間仕事をセーブしていたのです。
というかコロナ時期にプラス引き続き、という感じですか。
そして同時期よりもさらに数年前から、私は睡眠時間が平均4時間ほどという年月が続きました。
朝4時に寝て5時半に起きる、そして1日活動しても眠くない。
そんな身体になってしまったのです。寝たくても眠れない、いわゆる不眠症です。
何やってもだめ。
朝散歩もバナナもココアもマインドフルネスも、寝る前断スマホもGABAサプリもストレッチも何もかも。
いわゆる眠れる人って「寝よう」と思って行動していないんですよね。
寝ようと思ってやってきたこれらのことって、全部頭活性化されちゃうんです。
何も考えず、習慣化していればきっとよかったんです。
そして眠れるときに限って眠らせてくれない外部要因が続いたのです。
そんな日々が本当に長く続きました。苦しかった。
ただ、その分印西市内にいる時間だけは多かったのです。
これを利用して、仕事は割り切っていんざいパルケのために、急変する印西の写真や動画を積極的に撮っていました。
本来ほぼ身を明かすことがなかったのに、わりと顔を出す機会を増やしたり。
「私の書いた記事を見てくれる人が、私自身を認めてくれる。」
みなさんが当時の私の支えでした。
積極的にはじまったのが2020年~2021年頃。
そんなこんながあだとなり、収入はほぼゼロに近いほどに落ち込みました。
お金の不安って、けっこう精神的にきますよね。
そして、追い打ちをかけたのが、長年の睡眠不足やストレスによるものか、身体に腫瘍が発見されたんです。1つめは副腎。
副腎腫瘍は悪性だと生存率は予後不良の希少がん、とのことで、この場所がかえって「生きるということのふっきれ感」ができて良かったようです。
当時はなぜかめちゃくちゃポジティブでした。
ホルモンを出す生命維持に必要な臓器とのことで、血圧や自律神経系なども副腎が調整しています。
そういえば、9年前から年に2~3回、安静時に心拍数が突然180を超えることがあって、何度か循環器内科にお世話になっていたんです。
普通、安静時は60~70/分。走っても120/分を超えることはあまりないくらい。
なるほど!犯人はおまえだ!
ということで、精密検査したものの心拍数などの項目はグレーゾーン。
当時いろんな問題や悩みなどを抱えていたものですから、家で血圧を測ったら上が160~180、下が110以上というのが通常になりました。
そんなわけで以前から私の性格も知っている循環器内科さんにお世話になると、そこでは血圧が上200を超え、下が130を超えていました。
200/130。
点数だったらけっこう良い得点。
こうなるとどんどんドツボにはまり、血圧のキャンプファイヤーや~、という感じが待合室でも実感できるほど血圧上昇、フラフラしてくるのです。早く会計きて、と。
ここまで読んで、わかる方にはわかるかと思いますが、私はけっこう「繊細気にしい」だったり「楽観的」だったりな不安定さを持っています。
基本は楽観主義ですけれど。
これを循環器内科の先生はわかっていたんですね。
「初診で血圧の薬出す医者はやぶ医者だって言われるけど、これは絶対下げなきゃだめ。」
でも世の中にある降圧薬とは異なるアプローチで、世の中にある薬の一番弱い作用の物でした。
それなのに1週間で、血圧が90~100も下がったのです。
減薬しても安定しています。
つまり、もともとホルモンの影響はなかったのですね。
血圧は精神的なものや睡眠不足からでした(多分)。
実は血圧に関して、私は幼少期のトラウマがあって、中学のときから外で測ると160はずっと超えていました。
毎回塩分や運動、脂っこい食事のことを言われる。
そんなことわかってます。中学の時から。
私はおやつにアボカド。アーモンド。とかトマト食べる種族ですよ。
自分で料理しますが塩なんて使いません。自然の野菜本来のナトリウムと出汁のみです。
これが何十年続いたか。
でもいつか死ぬんだから食は楽しまなきゃって、ここ数年は食べたいもの食べてます。
アボカドは好きで食べてますけどね。
それを先生もわかっててくれていて、生活習慣ではないこともお見通しだったのです。
腫瘍にはへっちゃらなのに、血圧はトラウマに勝てなかった。
先生はすべてお見通しで、「よっぽど大変な時期を過ごしてきたんですね。」と。
今はもう薬はほとんど飲んでも飲んでなくても意味ない量、自分から「薬もう飲まなくていいです。」と言ってくる状態待ちのようです。
で、話は変わって腫瘍。
腫瘍なので半年に1回、5年間は経過観察となります。
初回ではなんとも言えなかったので、2回目。
エコー時点で肝臓に腫瘤が複数見つかってとか、副腎は当初より8mmも大きくなってるかもとか、いろいろありましたが、精密検査では最終的には肝臓はクリア、副腎もまったく大きくなっておらず、血液検査は良好でした。
腫瘍1つめは副腎。と言いましたが、2つめは胸わきの下にしこり。
これも経過観察ですが、おそらく大丈夫とのこと。
あとはおめめの緑内障予備軍として、毎年画像診断です。
これは生まれつき視神経がこういう形と弱さのようで、裸眼生活のくせに目が悪いというよくわからない状態。
小学生の時から飛蚊症見えてました。
もっと深刻で大変な方のお話をたくさん聞いてきましたし、
私自身過去に障害を持って生まれた子どもたちの社会サポートのボランティアを数年やってきて、生きることの運命に身をもって触れてきました。
アメリカに住んでいるとき、人がわんさか集まるときはなるべく柱を背にして出口の近くにいよう、とかいう時代でしたし。
この災害大国日本では突然若い命が失われてしまう、なんて防ぎようがないことが起きたり、
そうでなくても事故やケガで失くしてしまう。
高齢ならいいのかといえばそうではなく、人の命の重さに年齢や身分役職は関係ない。
それが早いか遅いかの問題だけで、必ずいくところは同じ。
そんなことを改めて考えました。
質問「マンパワー不足なのに、なんでほくそうパルケとして拡大したの?」
まず、この半年で身辺の事情が目まぐるしく好転したからです。
そして以上の経験から、「生きている限り残すもんは残すべ」という気持ちになりました。
私を育ててくれた地域は印西だけではありません。
親の片方はずっと都内なので、都区部に親戚が多いです。
かたや印西周辺の街にどれほど育ててもらったか。
その恩返しみたいなもの、自分にできること、自分らしいこと、
時代によりネットでは書かれていない話や街の記録。
そんなことをちょびっとでも続けられたらいいなと思いました。
そうそう、印西の情報ですが週に1回も見なかった時期がありました。
でもとある朝、ふとある用事ついでに市井橋に行ったのです。
時間を使ってわざわざ印西を歩いたのは本当に久しぶりです。

しかもなんで市井橋?
そしたら新しくなってたんですね。
調べたらなんと新しく開通したばかりだった市井橋。全然知りませんでした。
崩落しかけてたことも知りませんでした。
改修を決定したのが2020年~2021年頃のようです。
2020年~2021年頃といえばGoogle進出が決定し、Amazonがあることがわかり、印西が世界のINZAIと言われ乗ってきたきっかけの年です。
完成の見通しが立たず、予定より遅れましたが、2025年初夏に急に市井橋は復活。
あれ?近所の印旛中央地区開発の件、解散になったのも最近?
もういんざいパルケではないので書きますが、市井橋のある山田地区は現市長の出身地です。
そういえば市長、印西に戻ってこようと決めたの2020年~2021年頃じゃなかったっけ?
念のため橋の前で「お邪魔します」って、お辞儀しました。
訪れてみると竹の音がリズムカルにコンコンと鳴って、すがすがしくまるで歓迎されているようでした。
印西の中でもかなりの絶景では?

「私はもう昔とは違う。生まれ変わったよ。この素晴らしい景色をみんなに伝えてほしい。印西市さん、橋を直してくれる決断をしてくれてありがとう。市長がんばって。山田地区の星。」
急に橋に呼ばれた。そして、そんなメッセージを受け取った気がしました。
今だから言ってしまいます。
かつてメイクインザイオリジナルで市井橋のことが書かれていました。
メイクインザイオリジナルは、私にも印西の話を聞かせてほしいと声がかかったプロジェクトですので、市井橋の件は関わってないですが、プロジェクトにはある程度ご協力させていただきました。
インターネットにある情報を覆すのが私の役目。
そんな気もしました。
どの土地にも古き伝統や逸話があって、それをどうするか。
消してまったく新しくしてもいいし、残してもいい、でもその場所には幾人もの人の生活や命が行き来してたんですね。
逆に2020年~2021年頃、印西市が市井橋撤去で決断したらどうなってたんでしょう?
私はこういう話、全然信じないのです。
でも敬意は持ちます。
市井橋がそんなメッセージを伝えてくれたなら、ちょっとほほえましくなりました。
人知れず消えていくそんな場所が私を育ててくれたエリアにたくさんあるんだよね。
と小説ばりのお話でしたが、すべてノンフィクションです。
そんなこんなの日記のようなものを、自分の足跡として書いてみるのもまた良いものですね。
そんなわけで、
記事としては第一号が千葉県の「交通公園特集」となりました。
地味で採算取れない、必要な時期も短い、けど大切な場所。
ということで、あまり数字にならないことを見つけながら「らしく」続けていこうと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
みなさんにも、絶望のトンネルの出口が見えないことが多々あるかと思います。
そんなときは、1日1個の良かったこと、小さなことから、自分にしか見えないものを発信したり、書き留めたりして。
少しずつ歩いて行けるといいですね。
御徒町凧さんのある詩に「くたばる喜びとっておけ」ってあります。
そんな感じ。