こんにちは。
いんざいパルケは、地域メディア・地域新聞機関紙の「千葉ニュータウンNEWS」さんのご提案の題で、2024年1月・2月・3月と連載記事を書かせていただきました。
寄稿内容は千葉県印西市木下駅前にある「木下駅前にぎわい広場」についての内容となります。
千葉ニュータウンNEWSさんから許可をいただき、内容を転載いたします。
もくじ
千葉ニュータウンNEWSとは
地域密着の話題・情報を提供する地域情報メディアとして毎月機関紙が発行されています。
千葉ニュータウンNEWS
内容は2024年1月~3月の情報による寄稿文です。
一部訂正・追記・画像の追加をしています。
第1回 少し昔の木下を知ろう
はじめまして。2005年からインターネット上で印西市の情報発信を行っているいんざいパルケと申します。
2023年11月4日に開催された「いんざいふるさと産業まつり」にて、ワークショップ「木下駅南口公共用地の今後の活用について考えよう」に参加しました。
そこでご一緒した千葉ニュータウンNEWS様とのご縁があり、この課題について寄稿させていただきました。当日話し合われたことや感想をみなさんと共有することで、印西市民が一緒にこの街づくりを考えるきっかけになればと思います。
木下駅前にぎわい広場の概要
いんざいふれあい産業まつりの木下会場として利用された「木下駅前にぎわい広場」は、かつて日本デキシー千葉工場があった土地でした。
このデキシー跡地の広さは約3万2千㎡。
うち約3万㎡がにぎわい広場として開園。
一部が道路の拡幅として整備されました。
印西市内の他の施設との広さを比較
コストコ千葉ニュータウン店の売り場面積の2倍弱になります。
印西牧の原でいえば北口駅ロータリー前の空き地の1.5倍ほどの面積です。それ以外にまだ整備されていない土地が残ります。
にぎわい広場はあくまで暫定的使用
木下駅前にぎわい広場はこれで終わりではなく、今後の活用を見据えた暫定的な広場です。印西市が購入したものの、今後どのように活かしていくかいまだ決まっていない土地です。
広場の利用計画が決まってから購入すると、取得価格が上がってしまう可能性があるため早期に取得したとも予想されます。
広場の整備にかかった予算には周辺の都市計画道路の工事費も含まれています。
この木下駅前にぎわい広場をはじめ、木下地区そのものに対して印西市民にはいまいちピンとこないところがあるのではないでしょうか?
そこでいんざいパルケでは、3つテーマに分けてみなさんと一緒にこの課題に触れてみたいと思います。
少し昔の木下地区がどんな町であったのか。印西市においてどのようなポジションであったのかを知ろう。
なぜ木下地区に公共施設が集まっているのか。デキシー跡地を取得した理由を考えてみよう。
木下駅前にぎわい広場はどのように利用したら良いか考えてみよう。
木下駅圏は「生活圏じゃないから興味がないよ。」という方も多いでしょう。
しかし、木下駅前にぎわい広場の課題は木下駅圏だけの課題にとどまらず、印西市全体にも関係します。
その理由は、印西市は今まで各駅周辺の土地活用に対し、踏み込んだ介入には消極的だったものの、今回初めて広大な土地の購入と活用に前向きな姿勢を示しました。
これは千葉ニュータウン中央駅圏(東京電機大学跡地など)、
印西牧の原駅圏、
印旛日本医大駅圏、
小林駅圏など、
長らく開発されなかった状況が続いてきた土地への介入のきっかけになるかもしれないと期待が持てるからです。木下駅前の購入は印西市の土地活用の経験値としてその第一歩を踏み出したわけです。
昭和時代の木下駅周辺を知ろう
第1回では木下駅圏を知ってもらい、木下駅前にぎわい広場の課題に興味をもってもらうことが目的です。
ここでは木下駅からおおよそ徒歩15分~20分圏内の木下地区と大森地区、竹袋地区を含めます。
明治時代には観光船も発着し、東京都渋谷区が「村」だった時代にはすでに「町」規模。
千葉県内では船橋と同じくらい栄えていた町です。
詳しくはいんざいぶらり川巡りでも船頭さんが紹介してくれます。
いえいえ、今回はそんな昔の話はしません。
私が気になるのはもっと最近の話。特に千葉ニュータウン街びらき頃からの話です。
時は昭和40年代~平成初期。
木下駅前にぎわい広場には、かつて印西初の大手工場として紙食器などを作る日本デキシーが1965年(昭和40年)から稼働していました。
敷地内にプールがあり、市民にも開放され、とても身近な存在であったようです。
少しずれますが昭和後期から平成初期頃までは小林牧場も市民に開放されて親しまれていました。
木下駅前は阪東バスを中心に、我孫子や佐倉方面に多くの路線バスが行き交うターミナルがありました。
駅前は毎日早朝に朝市が開かれ、銚子から新鮮な海産物も売られていました。
木下駅徒歩20分圏内には、
おおよそ250店舗以上の個人商店や飲食店、事業所や医療施設が密集し、
八千代など遠方からも木下へ買い物に来る人が多かったようです。
当時の商業施設や飲食店の状況
ホームセンターや家具店が3店。
薬局、洋品店、呉服屋が計10店以上。
八百屋、魚屋、精肉店、花屋、茶屋が各3~5店。
時計店、自転車屋、金物店、おもちゃ屋が各2~5店。
駄菓子屋が木下のみで3店。大森地区は除く。
和菓子屋、洋菓子店が数店。
書店が4店。電気屋4店。
江戸時代から続く植木屋や花屋もあります。
旅館、CDショップ、木下レンタカー、北総交通。
スポーツ用品店、雑貨店、豆腐製造店、巨大な醤油工場、酒店数店。
カラオケ、ボーリング場、映画館2店などが、歩いて十数分の範囲に存在していたのです。
木下駅前にはカフェや小さなスーパー、書店やカラオケ屋もあり、気軽にコロッケや焼き鳥が買えるような、活気ある商店街の景色が広がっていました。
TSUTAYA、モスバーガー、サイゼリヤなど、現在は他地区で展開するチェーン店も当初は木下地区にありました。
そしていんざいパルケ2023年に独自に調査したところ、徒歩圏の個人飲食店だけでも40店以上も残っています。
千葉ニュータウン地区との大きな違いは、木下地区は歴史背景を持ちながら人が自然と集まって商業発展したことです。
このように木下地区は長らく繁栄の時代を築き、印西町の中心市街地でした。
次回はなぜ木下地区に公共施設が多いのか。印西市は木下ばかりに予算を投じているのでは?
にぎわい広場を購入する必要性はあったの?という視点で考察します。
第2回 木下駅圏に公共施設が集まっている理由
印西市の中心として長らく繁栄していた木下駅圏には、公共施設も集まっています。
その頃の発展をみれば自然なことかもしれませんね。
当時は千葉ニュータウン事業もはじまって間もない時代。
北総開発鉄道は住都公団線という名称で終着駅の千葉ニュータウン中央駅、そして印西牧の原駅までつながるかどうかの時代でした。
今回は木下駅圏に公共施設がなぜ集まっているのか、印西市は木下ばかりに予算を投じているのか、デキシー跡地を購入する必要はあったのか、という視点で進めたいと思います。
木下駅圏の公共施設の成り立ちを見てみよう
木下駅圏に存在する・存在していた公共施設
印西警察署
消防署
印西郵便
印旛高校
印西市文化ホール
中央保健センター
木下万葉公園、交流の杜公園、ひょうたん島池などの公園、広場
印西町役場・市役所
「印西町役場」は、かつて「千葉県立印旛実業学校」の校舎が使われていた歴史があります。現在の位置で言えば大森の久米繊維工場から成田線第二大森県道踏切の間あたり。その後、印旛実業学校は木下貝層の高台へ移設し、千葉県立印旛高等学校となりました。印旛実業学校の校舎は印西町役場として活用され、町役場はその後現在の場所に移りました。
印西警察署
「印西警察署」は木下河岸付近の柏屋近くにありました。その後大森の現在地に移転。警察署は千葉県が設置した施設です。
印西消防署
「印西消防署」はかつて大森の印西警察署の隣に印西地域の地区消防組合により設置されました。現在は竹袋に移設しています。
印西郵便
「印西郵便」は当初、国からの指定で木下河岸に設置されました。
印旛高等学校
「印旛高等学校」は、大森にあった千葉県立印旛実業学校が現在の木下万葉公園と交流の杜広場の敷地に移設し、県立印旛高等学校に。2010年に草深の印西牧の原地区側に移転。こちらも千葉県管轄の施設です。
印西市文化ホール
「印西市文化ホール」は、フクダ電子創業者福田孝氏による寄付で建てられました。
福田氏は大森出身です。地元のために、という想いから文化ホールを建てたそうです。福田氏は現在の東京電機大学出身。東京電機大学千葉ニュータウンキャンパス内には福田ホールがありました。なぜ東京電機大学が印西に来てくれたのでしょうか。印西市文化ホールが大森にある理由を知ると、福田氏の人柄から想いや夢が伝わりますね。
木下万葉公園
「木下万葉公園」は、野村不動産と木下地区の人を中心とした木下竹袋区画整理事業によってできた公園です。地元の人たちの街づくり活動とそれにサインしてくれた野村不動産により開園した経緯があります。
木下水辺の広場
「木下水辺の広場」はもともと日本専売公社があった跡地となります。
ひょうたん島池
「ひょうたん島池」は地元の人たちによって解放されている憩いの場です。
このように多くの公共施設は県や国、または地元の人が設置したものだとわかります。
千葉ニュータウンの成り立ちを見てみよう
一方、千葉ニュータウン地区はどうでしょうか。
「千葉ニュータウン事業」は主に千葉県と当時の住宅整備都市公団、現在のUR都市機構によって開発されました。都市計画や予算は千葉県の財政などを利用。
発展の歴史を見ると、ダイエーが地区の台所を支えていましたが、ジャスコとジョイフル本田の出店をきっかけに一気に民間商業施設の進出が進みました。
当初の計画が長い年月を経て思うように進まなかったことで、広大な土地を取得することが容易だったため、そのひとつひとつの規模が大きく、ロードサイドの商業スポットとして発展したのです。その後広大な土地の用途を変えることで、現在のようなデータセンターの進出に拍車がかかりました。
今に至るきっかけはジャスコやジョイフル本田の出店がひとつ。
そして京成成田スカイアクセス線の開通がひとつ。
さらに現在では大手IT企業のデータセンター進出もきっかけになっているかと思います。
印西市の街づくりは積極的ではなかった
ここでわかるのが、木下駅圏の開発や公共施設群も、千葉ニュータウンの開発も、印西市が偏って積極的に予算を投じたわけではないということです。
千葉ニュータウンは千葉県や公団が予算を投じて開発されました。
印西市文化ホールについて、大森出身の福田氏が地元のためにという想いで寄付により建てたということなどの背景は意外と知られておらず、
「なんであそこに文化ホールが」
「なんであんなに公共施設が集中しているの」
と誤解を受けることも少なくありません。
ちなみに福田氏は大森小学校のプールや体育館も寄付で作ったと言われています。
なぜデキシー跡地を購入したのか
長らく街づくりへの積極的な介入をしてこなかった印西市が、ここにきて積極的にデキシー跡地を取得します。決定的な理由については明言できませんが、少なくとも現時点での木下地区の課題を記載します。
木下周辺の公共施設には借地が多い
つまり施設維持費のほかに土地に対して費用がかかっています。
公共施設が細かく分散、老朽化
木下地区の公共施設は用途別で建物が異なり、町の歴史とともにあるためそれぞれが老朽化しています。
デキシー跡地、つまり木下駅前にぎわい広場に公共施設を集約することは合理的で、費用面も大幅に節約できることが考えられます。
では、公共施設を集めれば解決するのでは?
と思うのですが、「にぎわい」の名称や「木下地区の活性化」も前提であることが、この課題を難しくしているのでしょうね。
印西市の一歩を応援したい
印西市は各方面でも課題がある中、土地取得の第一歩として木下駅前を取得しました。
この結果がどう流れても、他の地区でこの経験を活かしてほしいと思っています。
そして、同じように課題を抱える各駅圏にも、同じくらい積極的に街づくりを促進してみてほしいと思います。
印西市は入居年数や歴史背景がくっきりと異なることが多く、地区によって大きくその土地の特徴や雰囲気が異なります。
その特徴をメリットとして活かした街づくりができるのが理想ですが、最後は「印西市がどうしたい」のか示してくれれば、市民はきっと応援すると思います。
的確な場所に適正な規模の文化ホールを置いても木下駅圏から不満はないでしょう。
中央駅前に超高層の展望施設を置いても、
牧の原に中央図書館を置いても、
小林に大型子育て施設を置いても、
本埜に水辺と牧場を兼ね備えた動物園を置いても、
平賀に広大な花畑を備えた農業公園を置いても、
宗像に大きな博物館を置いても良いわけです。
印西市には具体的な意志と方向性、そしてそれを行う理由、できない理由をはっきり伝えてもらえれば、市民も理解してくれるのではないでしょうか。
そして私たち市民は、地区によって偏見や無意識の隔たりを持たず、これからはひとつの印西として街づくりを考える時代に来ているのではないでしょうか。
その意味で木下駅前のにぎわい広場はひとつのチャンスとしてポジティブな視点で、印西市民のみなさんで考えてみてはいかがでしょうか。
最終回は、印西市民としてどのような活用をしたら良いか、考察してみたいと思います。
第3回 印西市全体として持続可能なものに
第2回まで木下地区の成り行きを説明してきましたが、いよいよ本題の「木下駅前にぎわい広場をどうすることが望ましいか」の最終回となります。
課題
再開発にはいくつかの課題があります。この課題はすぐに変えられるものではないため、これらの制限の中で活用することが望ましいかもしれません。
1. 木下駅前はおおよそ3階建て10mほどまでの高さの建物しか建てられないという都市計画法による開発行為の制限があります。
2. 周辺が戸建て住宅地になっており、大規模な施設では騒音の問題もあります。
3. 周辺の道路が狭く、特に千葉ニュータウンからのアクセスがネックです。
にぎわい広場を考えるワークショップの内容
第1回で記載しましたが、昨年11月「いんざいふれあい産業まつり」でのワークショップ「木下にぎわい広場の今後の活用を考える」の参加が、この寄稿のきっかけになりました。
私たちのグループで話し合われたことは以下の通りです。
木下地区の利点、特徴は何か
・水運で栄えた歴史・文化財がある。
・JR線が通っている。
・茨城県方面とアクセスが良い。
・水辺が多く観光資源に可能性がある。
・付近に千葉北西連絡道路が通る可能性がある。
木下地区の課題、問題点
私のグループで一致した課題は以下の通りです。
道路問題
千葉ニュータウン地区と木下地区は距離はわずか3km~5km足らずですが、道路状況が悪く、意識の壁ができてしまっています。
千葉ニュータウン中央駅圏からつながる千葉竜ケ崎線、
木下街道、
印西牧の原や日医大からつながる臼井印西線、
すべて幅員が狭くカーブが多いうえ交通量が多く、大型トラックも多いです。
さらに、それらの道路はすべて千葉県管轄の県道ということで、印西市は思うように手が付けられない状態です。
空き店舗
かつて250店舗以上あった木下駅周辺のお店のシャッター街問題。
その原因は、近隣の大型商業施設の存在も挙げられますが、個人飲食店などを中心に後継者問題を抱える店舗も少なくなりません。
江戸時代から続いていたお店も減ってしまいました。
駐車場
車社会の印西市。木下地区のお店には車を気軽に停められる場所がありません。
例えば、木下地区でお祭りなどのイベントがあっても、千葉ニュータウンからのアクセスの問題に加えて、どこに車を停めて良いのか地元の人にしかわからないという問題があります。
木下駅前の基本的理想案
ワークショップに参加するにあたり、私は事前に木下地区に住む知り合いや印西市各地の方々にお話しをお伺いして、その意見をまとめていました。その内容は以下の通りです。
理想的かつ基本的なイメージ
・屋内でにぎわう施設なら騒音問題が少ない。
・電車で市外から来訪したくなる施設なら持続可能な街になる。
・避難所の役目、地盤かさ上げ(1m~2m)。
・借地や老朽化の公共施設の集約。
・イベント用広場。
この理想を前提として、街の活性化をシミュレーションしました。
目玉施設ができる
→ それを目的に人が訪れる
→ 街に興味を持つ人が増える
→ 街の魅力を感じる人が増える
→ 住む人が増える
再開発でよく目にするマンションなどの宅地化と比較してまとめてみました。
マンションで人口を増やした場合
→ 将来的にイベント開催がしづらく、商業施設が建てにくい
→ 高齢化が一気に来る
→ マンションにしか人が集まらない(住居者のみ)
→ 通勤は車か北総線へ流れる可能性
以下、どのような施設が欲しいかを聞いてみました。下記はほぼ屋内施設となります。
広域集客力を持つ施設
子育て世代ターゲット
淡水水族館
足立生物園のような屋内動物園や馬関連施設
海外おもちゃの博物館(外資系企業が多いため)
交通公園
全世代ターゲット
温泉施設
IT関連の博物館・科学館(IT関連企業が多いため)
木下街道博物館・行商博物館
総合福祉施設
川の駅・道の駅
若者ターゲット
3X3バスケットスタジアム (印西ライノスホーム)
ライブハウス
市内や千葉の企業のテーマパーク
竹中工務店実験パーク
マブチモーター
BMW博物館
Google博物館
眼鏡
ヤマザキパン
単体で確実に遠方から集客できる商業施設
アウトレット施設・IKEA・屋内テーマパーク
※余談ですが、IKEAは三井不動産の土地や三井不動産が関わる地区にできる傾向があります。
この資料を作成しながら私が個人的に思ったことがあります。
「印西市はどうしたいのかわからない。」
私の情報ではこのデキシー跡地の購入を急いだきっかけや、木下地区の問題点などは聞いていたので、この夢物語のような資料はまったく必要ないのではないのかと思ったのです。
つまり、課題となっている建築の制限に加え、公共施設の集約やイベント広場の確保で活用すれば、この土地はこれで完了です。
もし木下地区活性化の起爆剤や印西市の目玉施設にするのであれば、印西市民のあなたが他所へ1時間かけても行きたいと思って実際に行く施設を思い浮かべれば、答えは簡単です。
私は、にぎわい広場は決して木下地区のためだけのものではなく、印西市全体にとって恩恵のあるものに生まれ変わって欲しいと願います。
もちろんそれによって成田線を使う人が増えれば理想であり、より便利になれば北総線と成田線の2路線の相互価値が生まれます。
周辺の価値が上がり、印西市全体の価値の底上げにも繋がります。
この課題を「他の地区の話だからあまり興味がないもしくは否定的」という方も多いかと思います。
しかし、同じ印西市民としてそれぞれの町の成り立ちや特徴をお互いに知り、意識の壁や物理的な障害を少しずつ無くすことで、印西市の魅力はこんなに色々な所にあふれているということを認識することができます。
みなさんでこの木下駅前にぎわい広場を「ひとつの印西市としての新しい一歩」として考えてみませんか。