木下河岸 (きおろしがし)
そろい揃った診療所、いくつもある美容室や歯科医、獣医、近所に2つの自動車教習所、酒屋、せんべい屋、魚屋、菓子屋、歩いていける距離に生活に欠かせないものがつまった街。
なんでこんな田舎にそんなにあるのか不思議。
そうなんです。
木下は江戸時代「利根川水郷」の宿場町として栄えた所。
北は「龍ヶ崎」、南に「佐倉」、東は「佐原」、西に「松戸」と、その拠点とともに歩んだ街です。
木下河岸の中心地
木下河岸の中心は木下駅周辺ではなく、現在「銚子屋」という老舗旅館がある場所です。
汽車が走る時代が訪れ、駅を設置するにあたり当時の候補地はその近くのエリア。ところが当時その地域は活況で駅の設置に反発があったため、現在の駅がある場所へと移されました。
現在の木下駅の場所は当時は何もないような場所だったと言います。
千葉県有数の宿場町
かつては千葉県の中では船橋と同じくらい栄えていたというのですから驚きですね。
交通手段の変化とともにその衰退は避けられなかったのか、それでも昭和期には小さな映画館が2つもありました。昭和後期には駅前にはバスが往来するバスターミナルが立地し、早朝には朝市場が開かれていました。
成田線の歴史はなんと120年以上。今だからこそ歴史情緒あり、自然あり、便利さありと、その魅力は消えません。「隠れ住みやすい地区」ですね。
ニュータウンに暮らしている立場から見ると郷土風情のあるちょっと憧れの下町で、雰囲気は戸建て中心の街ならでは。街の人たちが挨拶をし、声をかけ合う姿が見られます。子どもを連れていると地元のおばあちゃんがお菓子をくれることもしばしば。
この街の魅力は知れば知るほど奥が深く、これからの変化に期待したいですね。
いや我々が作っていくのですね。
当時の利根川と手賀沼の姿は今とは大きく異なります。利根川は木下に向かってカーブしているのですが、ここから船舶が停泊できるように内陸にも人工河川を通していたようです。いわゆる川の港ですね。
手賀沼は今よりも大きく、明治時代や大正時代にはもっと木下側 (我孫子市布佐方面)にも大きく広がっていました。現在は手賀川としてその名残を残すも、干拓されてしまってかつての形の面影はありません。
昭和の中期ごろまで手賀沼や利根川で子どもたちが泳いで遊んでいたほどだったと言われています。
これは市川市の中心部まで続く道路じゃが、江戸川と利根川を結ぶ主要街道だったんじゃ。
中山競馬場も木下街道沿いにあるから、木下街道の名前は千葉の北西部では意外と知られているんじゃよ。
木下街道
木下街道は市川市の行徳まで続いていた街道です。
実は起点は現在の木下街道(大森)ではなく、木下東に近く (河岸)から竹袋方面の高台を通っていたのが本来の街道です。
なぜ木下と行徳か?
木下街道がなぜここから始まり、行徳まで伸びていたか疑問に思いませんか?
江戸の人たちは当時鹿島の神社(三社)や成田の新勝寺などにお参りついでに娯楽を楽しむという文化がありました。いまでは想像もつかないですが、鹿島と成田は関東では江戸期からすでに有数の集客を誇る観光スポットだったのです。
鹿島に行くには江戸から舟に乗り江戸川を渡って野田で利根川を下り鹿島へ…行くよりも、行徳でいったん降りてまっすぐ木下に向かい、木下から銚子方面に船で行くのが最短距離だったのです。線で結ぶとほとんど一直線。こうして街道として栄えたと言われています。
同じような街道として成田街道があります。
1990年代の木下の地図
時は流れ、千葉ニュータウンの開発も進んできた1990年代の地図です。
木下を中心に、幹線道路が放射状にのびているのがわかりますか?
この幹線道路が集まっていることからも、木下がかつて栄えていたことがわかります。
この頃は千葉県の主要都市として、街の拡大地図も掲載されていました。この当時としても街中に商店や飲食店がたくさんあったことが伺えますよね。
カクライ家具のところはその前はボーリング場であったと聞いています。
木下河岸と木下街道の起点はここには載っていません。昭和初期ごろまではもっと北東側に商業地が広がって発展していました。このことからも時代の変化というものを実感しますね。
木下の歴史は深く長いため、学ぶべきことが多く、まだまだ話は続きますが今回はいったんここまで。
ありがとうございました。