印西の歴史

成田線木下駅と小林駅の朝市と行商の歴史|千葉県印西市

「朝市?ああ懐かしいね。お父さんが子どものころに印西市内の駅前でも朝市やってたんだよ。今でもやっているらしいけれど、昔は賑やかだったそうだね。」

そんな子どもの頃の地元の話をしたことがある人は印西市に何人いるでしょうか。

千葉県のJR成田線沿いではかつて朝市で賑わった歴史があります。

「え?なんで?」
「ああ、江戸時代のなんとか街道とかの絡み?」
「ごめんなさい、わたし歴史苦手。江戸とか関係ないし興味ない。」

いえいえ、
そんなに大昔の話ではなく、最盛期は戦後になってから、そして木下駅は昭和後期や平成まで、小林駅は令和の今も開かれています。

 

朝市と言うと、勝浦や銚子、大洗の魚市場が有名です。
全国各地には競り市場をはじめ、農産物や生鮮・雑貨販売など、朝市が一般民向けに開かれている街がいくつもあります。

これとは「少し違った性質」を持つ市場がJR成田線小林駅と木下駅の市場です。

情報は2023年3月時点。
情報は
「昔から印西を知る人たち」
「市場出店者」
「朝市に出店する魚屋さんと取引する人」
そして「自分の体験談」からのお話をまとめています。
なお「印西市観光協会」などにも問い合わせたのですが、市場について情報がありませんでしたので、公式的な情報とはなりません。
市場出店者さんたちから取材の写真掲載の許可をいただいています。
市場は公に主催があるものではないため、正確で詳しい情報は伝えられません。このような地域の文化があったという話だけでも伝えたく、記録として残させていただきました。

 

行商 (ぎょうしょう) とは

商品を持って小売りすることや小売りする商人のこと。

印西市の2つの駅前朝市

成田線沿線の朝市は、「行商に向けて物を売る人」が増えたことで形成されました。

1990年代頃 (平成初期くらい) まではJR木下駅や我孫子市 (あびこ市) の布佐駅(ふさ)、湖北駅 (こほく) でも朝4時頃から駅前に数店舗出店されていました。
※湖北駅に関しては今後調査予定。

行商がいなくなった現在でも小林駅前では朝市が開かれています。

印西市は海はないので農産物・畜産物だけ?
と思われるかもしれませんが、
実は当時銚子の方から新鮮な魚介類を都内や関東の山側に運びに行く中継点としても、海鮮を取り扱うお店が駅前で出店していました。
また近隣の河川や湖沼でフナ漁やうなぎ漁も盛んでした。

2つの市場はそれぞれ少し形を変えていますが、このような地域の文化があったという話だけでも伝えたく、記録として残させていただきました。

JR小林駅前の朝市

JR成田線小林駅前の市場

朝市の開催日   :水・金・土曜など
日中の市場の開催日:平日ほぼ毎日
朝市の開催時間  :朝4時頃
午前中の市場の時間:~お昼過ぎくらい
夕方の市場の時間 :夕方16時頃
開催場所     :JR小林駅南口前 (朝市は建物内)

かつて成田線で最も行商が多かった駅の一つといわれている小林駅。
その小林駅前の朝市は今もなお開かれています。
また、それとは別物として日中も市場が開かれています。

小林駅前の朝市は特集ページを作成しました。
下記リンク先で紹介しています。

JR成田線小林駅前の市場
JR成田線小林駅前のちいさな朝市と市場|2023年千葉県印西市千葉県印西市、JR成田線小林駅前では昔から朝市が開かれています。 朝市と言うと、勝浦や銚子、大洗の魚市場が有名ですが、農産物や雑貨...

今回は木下駅の朝市を主にスポットを当ててみたいと思います。

JR成田線駅木下前の朝市

※現在は開催されていないと思われます。
かつての開催日 :ほぼ毎日
かつての開催時間:朝4時頃~朝6時頃、たまに夕方
かつての開催場所:JR木下駅北口前モンテサカタ寄り (現在の印西歯科あたり)

本当に小さかった頃、私も見に行ったことがあります。
というのも、身内が市場で出店していた人と知り合いだったということで。

早朝4時~5時くらい。
当時は木下駅前は坂東バスのバスターミナルがあり、我孫子や臼井、佐倉など各方面へのバスが何台も往来していた時代でした。

しかしながら木下駅前は、おそらく現在は消滅。
当時、北口周辺だけで30店舗以上の商店、飲食店や小さなスーパーがありましたが、いま残るのは数店舗。

現在は骨董市場という形で毎月第1土曜日に定期開催するイベントが行われていますが、その経緯・目的はまったく異なります。

 

印西市の朝市の歴史

朝市はなぜできたの?

かつて行商さんたちは成田線を使って当時の東京の最大の繁華街上野方面へ向かい、都内に地元の生鮮や特産物を売りに出ていました。

その行商さんたちに向けて、駅前では近隣や遠く漁港などから多くのお店がやってきてお店を広げていたのです。これが朝市のはじまりです。

「東京の人たち」
 ↑↑
「地元の行商」
 ↑↓
朝市「遠方の農家や漁師、菓子売りなど」
 ↓↓
「近隣客・観光客」

という構図です。

行商さんたちの中には交流や休息も兼ねて駅前で売る人もいました。

駅前に出店するお店で賑わうということは、地元の人や商業を営む人ばかりでなく、近隣の人たちも買いに来るという、人が行き交う流れができていました。
こうして行政や企業、団体が絡むことなくごく自然に市場が形成されていきました。

もともと木下の場合は昔の宿場町であったことからその流れは想像できるのですが、せっかくなので「成田線」「行商」「朝市」のつながりをざっくりと紹介します。

ずっと昔に時間を戻します。

江戸時代

昔むかし、江戸時代には多くの江戸民が木下を目指し、船でスーパーパワースポットの香取や鹿嶋に参拝しに行ったという東国三社巡りの記録があります。

もちろん車が無かった時代。
江戸の移動手段で早いのは「船」と「馬」。
江戸からの直線ルートが木下街道~利根川だったのです。

交通の要衝である中継地点「木下河岸」には多くの旅籠などが並んでいました。
「木下でせんべいが売られた」という歴史の原点に近づいています。

ちなみにこの利根川の千葉県部分、江戸時代より前には「利根川としては」存在していませんでした。人工的に作られた利根川なのです。
江戸幕府すごい。

千葉県では成田山がにぎわっていました。
成田街道沿いには船橋などの宿場町が栄えていました。
当時の木下は船橋に匹敵するほどにぎやかな宿場町だったと言われています。
(といっても5街道の宿場町とは比較にならない千葉県内の話です…)

ここから先のお話は「東京」と「木下」は切り離せない関係になります。

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明治時代

木下河岸の蒸気船銚港丸木下河岸「蒸気船銚港丸」をカラーに加工(参考:木下駅壁面)

明治22年頃、自治体の大合併が行われた後も東京の「渋谷」や「練馬」が「村」だった時代。
同じ明治22年に「木下町」という「町」規模になったこの辺りはさぞ賑やかだったのだと思われます。

1901年 (明治34年)、120年以上も昔に成田線 (成田鉄道) が開通します。
当時はまだ東京駅がありませんでした。
終着ターミナル駅は「両国橋駅」や「上野駅」。

「半島止まりで両国橋駅止まりの総武線」よりも、「東京市内各地や地方都市つながっている上野駅」の方が優位性がありました。
こうして早くも成田線 (我孫子線) は上野駅~成田駅間の常磐線との直通運転をはじめます。

※当初、東京市は麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区の15区。

大正時代

大正時代に成田線の行商さんたちが増えたと言われています。

大正時代初期に東京駅が開業します。
関東大震災以降に成田線や京成線の行商はより増えたと言われます。

※東京の街が大きくなるにつれ、近隣である千葉県から農産物を売りに出る人が増えました。

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昭和初期~戦後

成田線の行商木下駅の行商(参考:木下駅壁面)

行商の最盛期ともなるのが戦後。

昭和30年頃には成田線沿線で2,000人~3,000人近い行商さんがいたと言われます。
京成線でも2,000人ほどいたと言われ、千葉県の路線は行商さん (通称カラス部隊) で賑わっていました。
ちなみに昭和後期まで戦後約30年間成田空港も開港していません。

世の中に自家用車が登場した時代ですが、朝市ではそのころはまだリアカーで売り歩いていたと言われています。

成田線で多くの行商さんたちが各方面に向かいます。
行商さんは東京で個人ならではのサービスに定評があり、午前中で50Kgほどの品物を売りさばいたとのことです。

その行商さんに向けて農産物やお土産や衣類、菓子などを販売するお店が駅前に出店するようになりました。
これが朝市の原点です。

他の町はどんな感じだったかというと、

常磐線の柏駅周辺は集落のような感じ、我孫子は旅館などが集まる文化人が集まる宿場町。
浦安は海苔やアサリ漁の町。
新宿は昭和40年代まで広大なヨドバシ浄水場があり、池袋サンシャインの場所には東京拘置所がありました。
渋谷はその存在も薄く名前も出てこない頃の話です。

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昭和後期

成田線木下駅の昔の様子木下駅前の様子(参考:木下駅の壁面より)

高度経済成長、そしてバブル。
東京の吸引力が一気にアップ、千葉県も一気に宅地開発が行われます。
多くの農家が兼業または転職しはじめます。

行商衰退期の昭和後期。

しかし他地域に比べれば多くの行商さんがいました。
成田線や京成線には 行商車両のような感じの行商さんばかりの車両がありました。

最盛期には湖北駅、そして最後まで多くの行商さんが乗り降りしたのが小林駅です。

さて、繰り返しにはなりますが、その行商さんたちに向けお店を開いたのが市場の人たちです。

このころから駅前では現在のスタイルの原型ともなるトラック販売が展開されました。

私も本格的に農産物、海産物を広げて売っているのを見たことがあります。
それも昭和60年代か平成初期頃 (記憶が定かではありません) の話です。

他の街はどんな感じだったかというと、

東京は秋葉原駅前に神田市場、都庁は丸の内にありました。
1978年 (昭和53年) に成田空港 (当時は新東京国際空港) が開港。
1979年 (昭和54年) に千葉ニュータウン (白井~小室) の街びらき。

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平成・令和時代

竹袋稲荷神社祭礼奈良時代から続く竹袋稲荷神社祭礼

平成になると行商はほとんどいなくなりました。

そして木下駅の朝市はおそらく無くなりました。

令和となる現在は印西市内では小林駅前で出店する人たちのみとなります。

銚子から出店される方の中には、地域への卸も行っているため、小林駅から湖北駅、内陸方面へも移動している方もいます。
その方は新鮮な海産物を関東各地の飲食店に卸しているとのことでした。
(2023年現在)

昔から水の便が良く、土壌が豊かだったこの地域。

このような時代の経緯も含めながら、この辺りの市場は自然な人の流れによって成った印象がうかがえます。

 

歴史を語るのは難しい

「どうやったら興味のない人にもわかりやすく説明できるか」

ニュータウンの印象が強いがゆえに「昔は何もなさそうな印西市」。
でもそんな地域の歴史でも非常に様々な出来事が絡み合っていてとても難しいです。

かんたんに書けば専門家からは
「そこは違うでしょ、こうでしょ。」
とお叱りを受けそうな部分も、あえてわかった上で書いています。

そしていんざいパルケで書かれたことは、すべて正しいわけではありません。
歴史は地域に住む人、見る人、聞く人、経験する人などがそれぞれの視点で積み上げたものと考えています。
事実を事細かく書けば、文章は長く難しくもなりますし、わかりやすく書けば読む人によって解釈が変わってしまうこともあります。

ただ、最後にお伝えしたいのは、「こんな昔話があるんだよ。」と
今、そしてこれから印西市に住む人が一人でも後世に伝えていただけるよう、その興味のきっかけになればと思って更新しています。

ありがとうございました。